「草枕」と若冲

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本を読んでいる時に、傍らのラジオやテレビから、今まさに読んでいた言葉が聞こえてくることが何度かあった。ユングが言うところの「シンクロニシティ」とでも呼ぶ現象なのだろうが、最近久しぶりにそんな体験をした。

今年の1月から3月まで九州国立博物館で開催されていた「若冲と江戸絵画展」を見に行った時の話だ。その日は、たまたま家族が用事で出かけていて、何年ぶりかで体験する一人で過ごす休日だった。永年福岡に住んでいながら九博どころか天満宮にさえ一度も行ったことがなかったので、お参りをかねた大宰府までの小旅行を計画した。

その日は、3月11日の展示最終日で、桜の季節にはまだ早いものの、うららかな春の陽気を感じさせる日だった。普段は、働いている店から自宅が徒歩圏内という生活を送っているので電車に乗るのも久しぶり。たかだか片道30分程度の移動なのに、妙にうきうきした旅行気分で出発の準備をすすめていた。列車の旅には文庫本という条件反射のような思い込みがあるので、家のリビングを見まわしたところ、漱石の「草枕」が眼に入ったのでポッケットに突っ込み天神から西鉄電車に乗り込んだ。

この「草枕」は、先の正月に帰省した実家で昔の本を整理していて出てきたもので、高校2年生の時に140円で買った新潮文庫だった。今、自分の店でも販売している同文庫に比べると極端に文字が小さく薄っぺらなのに驚かされる。よくこんな細かい文字を読んでいたものだと思うが、そんな活字の横には律儀に鉛筆で書き込みがされている。難しい単語の意味を辞書で調べたものらしいが、それが最初の数ページしかないところをみると、どうやらそこで挫折したらしい。それもそのはずで、「草枕」は漱石が「天地開闢以来類のない小説」と呼んでいたとおり、古今東西の小説や詩、芸術作品などが至るところに引用された高度な小説で、高校生が読んですんなり理解できるような代物ではない。と、今にして思うが、高校生の頃は、この「草枕」も入っていたであろう「新潮文庫の100冊」なんかを、ずいぶん読んでいた記憶がある。解らないなりに貪欲に読み進めていたようだが、カミユやカフカなどの作品には強い印象を抱いた。このシリーズが未だに続いていているのは嬉しいことだし、ほとんどセットものは皆無に近い自分の店でもこれだけは毎年申し込んでいる。

「草枕」の冒頭は、「山道を登りながらこう考えた。知に働けば角がたつ。情に棹させば流される。」という有名な書き出しで始まっているが、この山道が熊本の金峰山で、漱石が第五高等学校の教師をしていた時代の体験をベースに書かれたことなどは、最初に読んだ時は知らなかったと思う。それから30年近くたち、「兎角に住みにくい人の世」もだいぶ体験したことや、作中の季節がちょうど春であったことなどから、高校時代よりはずいぶんと興味を持って読み進むことができた。主人公が山道を雨に降られ宿に入ったあたりで大宰府到着となった。

駅を降り天満宮の横から長いエスカレーターを通って九州国立博物館に到着。最終日なのでとんでもない混雑を覚悟して行ったのだが、まだ午前中だからか思ったほどではなかった。なにせ中学生のころ上野の美術館で見た「モナリザ展」の記憶がある。あの時は、たった一枚の絵を見るために何時間も並びやっと前に到着しても立ち止まってはいけないという代物だった。関係ないが、上野では同じ中学生のころだったか、パンダが初めて来た時と映画「エクソシスト」の公開の日にもずいぶん並んだ思い出がある。怠惰な大人となった今では考えもつかないが、そんな時代のムードもあったような気もする。

肝心の展示は大作「鳥獣花木図屏風」がなんと言ってもメインだがそれ以外にも、展覧会のポスターにも使われていた「紫陽花双鶏図」、「群鶴図」など思わず見入ってしまう作品が数多くあった。

久しぶりに充実した展覧会の余韻に浸りながら帰りの電車に乗り込み、行きの「草枕」の続きを読むうちに、「あっ」と声をあげそうになった。主人公が泊まった旅館の部屋の壁にかかっていたのが、まさに今見てきた若冲の一筆書きで描いたような鶴の絵だったからだ。その部分を引用すると、「横を向く。床にかかっている若冲の鶴の図が目につく。これは商売柄だけに、部屋に這入った時、既に逸品と認めた。若冲の図は大抵精緻な彩色ものが多いが、この鶴は世間に気兼ねなしの一筆がきで、一本足ですらりと立った上に、卵形の胴がふわっと乗かっている様子は、甚だ吾意を得て、飄逸の趣は、長い嘴のさきまで籠っている。」となっている。おまけにこの数ページ前には、これも同じ展覧会に出品されていた長沢芦雪まで登場している。あまりのタイミングのよさに冬でもないのにちょっと背筋が寒くなった。

今の若冲ブームは、この展覧会のコレクションをしたアメリカ人プライスさんによってもたらされたものだと聞いていたが、なんのことはない、日本が世界に誇る文豪が100年前(「草枕」は1906年発表)から高く評価していたのだった。ちなみに、この「草枕」は、大好きなピアニスト グレン・グールドも熱心な読者だったということも、この後調べていてわかった。一種の隠遁者だった彼がこの作品にひかれたのもわかるような気がする。

「若冲展」のコピーが、たしか「江戸の最先端、今でも最先端」だったと思うが、輝きを失わない古典のすごさを実感、いや、体感した一日だった。

草枕
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ブックスキューブリック 大井 実